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荒野の一ドル銀貨―ブログ版
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ひつじ

平凡なひつじです。
風流かぶれのをかしな日常を
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2004.03.11.The Cherry Blossom Revolution
「葉桜」が気になっていた。

例えば色男、という言葉は、「男」に、形容するコトバ「色めかしい」がくっついている。醜男(ぶおとこ)は「ぶさいく」な「男」であり、優男(やさおとこ)は「やさぐれ」た「男」である。雨男だの火男だの年男だのといった、説明するコトバをすべて取り払った「男」が基本形なのに違いない。そしてそうだとするならば見過ごしがたいコトバがある。

葉桜である。

桜は一年に一度、春の陽気に誘われるままに羽目をはずす樹木である。枝という枝に花を散りばめて咲き誇り、狂い咲く。危うげな美しさにもさることながら、その狂った勢いに心打たれずにはいられない。

けれど一年の大半はいたって物静かに過ごす彼なのである。正気に返るや否や葉をつけ、夏を緑に彩り、秋には装いを替え、冬には葉を落とす。桜の基本形は何か、と聞かれたら、「葉」だ。彼の生活を支える葉を無視することなど、とてもできないではないか。

なのに「桜」というコトバにわざわざ「葉」がつく。「桜」が基本形なのだ。花という二・三週間のアバンチュールにこころを奪われ、それこそが本来の姿であり、その他は花への助走なのだとみなす。のだ。狂っているのは、人間の方だ。


         * * * * *


などと書いていた。もう四年前のことだ。

このとき十九歳、私という人間はずっと不連続に連続してきたはずなのに、もう自分のうちのどこにもこの黒いほのかな怒りは見当たらない。書いた当初はそれなりに斬新な意見だ、と思っていたはずなのだけれど。

それにしても、二十一世紀の技術でも桜を咲かせ続けることはできないのだろうか。葉をつけていない桜はたぶん光合成できない。ということはつまり絶食しているのに等しいだろうから、あまり長く続けさせるとよくなさそうだけど、一年中花をつけるようになったらこれは革命だ。人も樹も春ひとときのアバンチュールというわけにはいかなくなる。狂いっぱなしなのだ。

人はむしろ冷静さを取り戻すだろう。

そしてこれは想像だけれど、今までそんな研究に誰も挑まなかったわけがない。桜が大好きな日本人だ、同じことを考えたものは一人や二人ではないだろう。なのに実現していない。

と、いうことは、闇の組織の妨害があるに違いないのだ。

つかのまの狂気をいつくしむ会。
をかし感をてがかりに生きるひとびとの会。
日本にわずかながら残る「をかし感」を保存する会。

ヲカシ・ディフェンディング・アソシエーション。

O.D.A.だ。

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2004.03.08.スロー
何もその男たちが不可解だったのではない。

大学に出向いたのだ。どうもわさわさしているなと思ったら、合格発表の日に来てしまったらしい。受験生がうようよと行進し、時にその母親らしき婦人が連れ立って歩き、すまい情報を配るひとが大学までずらずら並んでいる。

構内に入っても人でごったがえしていた。なるべくひとびとを避けて人通りの少ない道を歩いていると、行く手から盛大な歓声がとどろいてきた。近寄ると工学部の掲示板だった。

受験生が見上げている。そのうしろを、囲むようにでかい男たちが控えている。
逆三角形の上半身に緑のユニフォームといういでたちでアメフト部だとわかった。この日のために鍛えてきた肉体で、合格者を中空高く舞い上げる。雄叫びとしての万歳三唱が構内のあちこちから遠く響いてくる。


風物詩である。そこまではわからないことはない。


正確に言えば、男たちがアメフト部なのかラグビー部なのかがよくわからないのだが、でかい男が目を光らせながら合格したらしき少年少女を探す、少年の一人がそれを嫌ってちょこまかと逃げる、そういう光景はある程度にシュールでありながらも、どこかほのぼのと、のどかだ。


不可解だったのは彼らでも男たちでもない。
マネージャーだ。


なぜか、どういうわけかそこにマネージャーがいるのだ。わあわあという活気の中に、やはりわあわあという感じで溶け込んでいた。ごく当然、という風情で、男たちの脇につったっていた。

彼女ひとりのために光景はとたんにおかしさを増した。先ほど軽い冗談で「この日のために」と書いたけれど、部としての活動の正式さがここにリアルにかもしだされていた。胴上げへの、まっすぐな意思があった。「少年は中空(そら)を目指した」、こう書いてしまってもよいくらいに純化した胴上げへの情熱。狂熱。


彼らが受験生に飽きたとき、日本は終わる。

2004.02.12.単位
「時間にして○分」などと言う時、では時間以外に換算するとそれはなんなのか、というダウトに、昔、出会った。

言われてみればなるほどわけがわからない。いまだかつて「時」の単位に「時間」以外のものが用いられたことがあっただろうか。

気づいたひとはただものではない。懐疑の精神である。
このことを最近、友達と話していて、唐突にひとつの回答を思いついた。

「村」は実はある種の単位なのではないか?

町、市、などと並んですでに「社会の大きさ」の単位のひとつではあるが、それは限定的な使われ方をしているに過ぎないのではないか。

つまり、駅まで徒歩26分、自転車で12分のところが、「村」で「八分」だとしたらどういうことになるか。

考えるほど、ことの重大さが見えてきた。それは「時」をあっさりと表し、同時に、広さ、牛密度、じじい&ばばあ/がきんちょ率、過疎率、嫁の不足率などもやすやすと表してしまう。しまっている。「村」はきわめてトータルな単位と言えるのではないだろうか。


問題はなぜ特に「村八分」という表現だけが残ったか、なのだが、またひらめきが訪れるまでとっておくことにしよう。
【付記】
2004.01.20.プロヘッソナル
電車で、雑誌『アエラ』の今週のコピーを見た。

「トリあえず肉は、コケッコウ」

反射的に「モーコケッコウの方がいいのにな」と感じた。一応断っておくがこれがおもしろいというつもりではない。だがそのことと「モーコケッコウの方がいいのにな」と思うこととは、別の問題である。

狂牛に病鳥、世間は食肉への不信にゆらゆらしている。常に世相を見つめ、鋭く切り取り、どんな社会現象であろうとたちまち「どうでもよく」してしまう『アエラ』なのだから、ここは「モーコケッコウ」であるべきはずなのだ。ウシを見過ごしていいはずがない。

それが疑問であり不満であったのだけれど、一日考えていて唐突に悟った。

これはプロによるプロの仕事だ。

日々このくだらないコピーを産み続けている彼らがまさか、今回ウシの「モー」に気がつかないはずはない。なのにあえてそれを外した、とすれば、そこには海より深い意図があるに違いない。そう思ってこの字句を見て欲しい。

「トリあえず肉は、コケッコウ」

すでにこれは完成してしまっているのである。「トリ」と「コケッコウ」とが対になって、鏡像のようにきりりと構築している「鶏」のうつくしさを、「モー」は、むやみに損なってしまうのではないか。

そう気がついてみれば、この一文がなにか、さんぜんと輝きさえ放つようではないか。この「どうでもよさ」に他ならぬ『アエラ』はこだわり、磨き抜いてきた。

社会的役割、完成度、などというものに縛られない『アエラ』の職人たち、そこにきらめく何か赤いもの。

トリもなおさずケッコーなことである。

2004.01.16.奥義
なんとなくNHKを見ていたらすもうニュースがあった。
かなりめずらしい決まり手が出たとキャスターが言う。

「とっくり投げ」というのだそうだ。

映像を見ていると、しばしの激しい応酬ののち、力士然とした顔の右の力士が、組んだ相手のうなじに両手を回してくるりと投げた。勝負ありだ。歴史の一ページが新たに刻まれた。

けれど意外にも投げた本人はいたって平静である。息は切れているけれど、それほどの興奮は見て取れない。なにもふとっていて表情が読みにくいというのではなく、いつもの取り組みの、いつものような感じだった。負けた力士にしてもふつう負けた場合にするような表情をするのみであった。場内の観客にも、行司にも、特に変わった様子は見られなかった。

世紀の瞬間に立ち会ったというのにみんな平静だ。ひょっとしたら、「ただいまの決まり手は~」とアナウンスする係りの人くらいは興奮を抑えていたかもしれないけれど、誰もがひどく無自覚だった。

珍しすぎて、出にくすぎて、そして地味すぎて、誰も驚かない。
なんとしぶい奥義ではないか。

たぶん、すもうというものは歴史が長い分洗練されていて、常道からはずれたアプローチが通用しにくいのだ。勝った力士もインタビューで「押し出しか寄りきりが自分のすもうでごわすから」という意味のことを言っていた。無心に出たのだ。わざわざ首を支点にして投げてみよう、などと狙ったりはしないのだ。たまたまそこに手がかかって、たまたま珍しい技になった。

常道と少し違うことをやってもこれほど珍しい技になる。
とすれば、大きくそこから外れたら、いったいどういうことになるのか。


一方の力士が行司を投げ飛ばし、他方が土俵に引き上げ、さらに投げる。


そんな技が出たらどうなるだろう。

敢闘賞など問題にならない、低く見積もってもまずノーベル平和賞かなにかがまちがいなくその場で出る。土俵に飛んでくるのはざぶとんどころではない、かけぶとんだ。勝者はいったいどちらなのか。行司の安否は。そこまでされてもやはり勝負を裁かねばならないのか。審判団は黙っていていいのか、物言いは誰につければいいのか。力士は汗を舞い散らせてワルツを踊る。歓声で何も聴こえない。怒号。もうなにがなんだか誰にもわからなくなったころ、場内にろうろうと響く例の声。


「ただいまの決まり手は~行司殺し~行司殺しで~木村庄之助の勝ち~」


名人芸であろう。





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