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荒野の一ドル銀貨―ブログ版
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ひつじ

平凡なひつじです。
風流かぶれのをかしな日常を
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2006.05.02.布教
雨が続いている。

春先に降る雨を、なんというのだったか、翠雨、だったか。
「はるさめ」でもまあいいのだけどちょっと澄ましてみた。

夕方買い物に出、帰る頃に月がひさしぶりに出ていた。細い三日月だった。雲がまだ少し残っているためか幾分淡い色をしていた。

道々、細く淡い月を見上げながらきこきこ自転車を進める。
視界の中の月を調整しながら帰るのである。

建物の影に入れてみたり、水面に入れてみたり、木々の梢に透かしてみたり、などしつつ進むうち、「団地建設予定地」と断りのついた、だだっぴろい空き地に差し掛かった。

むやみに風情な空間だった。くろぐろとした土が柵に囲まれた一面を覆っていて、木が幾本か、適当に突っ立っている。木の上の方をめがけてなぜか柱が三本ずつ立てかけてあって、なんだか少し、どっかの部族の祭壇のような趣になっていた。


一枚の絵を飾るように、静かに月が浮かんでいた。


ただただそれを見上げていた。すると通行人がひとり、「なにごとか」というような面持ちで空を見上げながら脇を通り過ぎていった。

誘導成功である。

「風流」の精神はこのようにして伝えられてゆく。風流なポイントでただただ風流に心ゆだねる。道とは、学校だの会社だの家だのをつなぐだけのものではあるまい。見飽きた道、飛ぶように過ぎる日々、けれど埋もれさすには惜しいものもある。と、無言で訴えかける。


ただ、少し不審ではあるかもしれない。

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2005.07.22.やさしく雨ぞふりしきる(五)
ここまでの推定に従うならば、「私晴」もやはりごく狭い範囲での晴れだと考えられる。だが恐らく、ただくるりと定義を裏返すだけでは「私晴」は実現できない。

私雨が、私雲というものをぽんと仮定することで思い描けるのに対し、「私晴」は「私的な空間だけ晴れている状態」という、なんとももってまわった想像力を必要とするからである。

全天がくろくもに覆われている最中にあって、ひとの真上、かなたの雲海に、三十センチばかりのぞく、晴れ間。

まずずぶ濡れだ。

雨ははるか上空から垂直に落ちてくるものばかりではあるまい。ただ穴を空けただけではどうにもならない。少し風でも吹こうものならたちどころにぬれねずみではないか。ひとの歩くのについてゆく、という最重大課題も相俟って、その制御の困難さは私雨の比ではないだろう。

想像も及ばないほどの未来、遠い時空でもしかしたら実現されるかもしれない「私晴」。だがなんとか今、現在只今を生きる我々も体感してみたい。古人はいつだって技術の不足を創意で補ってきたではないか。

知恵を絞った。「私晴」に求められる条件とは何だ。

まず、「オフィシャルには」雨であること。公雨の状態で「パーソナルに」晴れていればよい。部分的に雲を晴らすのが難しければ、最大限に晴れに近づくにはどうしたらよいだろうか。「晴れ」とはいったい何だ。つきつめてゆけばそれは「ぬれない」ことではないだろうか。

「パーソナル」に「ぬれない」。この難題を実現させるにはどうすればよいか。最低条件でよい。最も簡単に実現するには。

公雨をさえぎるものが頭上に、欲しい。
それは持ち運べることが望ましい。ひとについてゆく、という移動面での課題をクリアできるからだ。とすれば軽い素材の。

そうたとえば、水をはじく、布か紙のような軽いもの。
それを頭上にかざす。
携帯しやすいように、折りたためるとまた便利だ。軽い金属か何かで骨組みをつくり、布地に通せばよいのではないか。面積効率を考えて、展開した形は円形に、紡錘形のふくらみを与えて、持ち手をつけ。軽く装飾を施せば。


できた!



watakushihare.jpg


ちょうど思い描いた通りのものが自宅にあったので紹介したい。これこそが現代型の「私晴」だ。到底実現不可能と思われた無理難題が手持ちの技術で解決できた。感無量である。






書いているうちに梅雨が終わってしまった。時節は盛夏へと移り変わり、夕立と雷雨が楽しみな季節である。たまには傘をさして歩いてみようか。それはそれでまたいとをかしかと思う。
【付記】
2005.07.21.やさしく雨ぞふりしきる(四)
それは大胆不敵な宣言であった。


わたくしあめ。


goo辞書によれば「せまい範囲だけに降る雨」とのことだが、どのくらいの規模なのだろうか。

一般にひとは私的な縄張り空間を持っていて、ある距離よりも他人に近寄られると心理に不快を生じる。それを「私」の範囲だと仮定すれば、雨雲は半径三〇センチより大きいということはあるまい。

それが行く先々にとことことついてくる。
こんなにも普段着の「雨」がいったい今まであったろうか。カジュアルだ。

そしてまたこのコトバから「ほとんどすべての雨は実は『公雨』であった」ことに気がついた。

ほとんど、いやまったく誰にも説明を要さないほどオフィシャルな存在であった雨、誰の自由にもならないその絶対的な尊厳が、たったひとつ漢字を加えられたことによって見る間に所有物に堕してしまっている。

アナーキーである。破壊的である。
古人とはこんなにもパンクロックだったのか。


眼を閉じると、私雨の一日が浮かんでくる…


私雨の朝は早い。
朝刊の届く音とともに目覚め、その日の天気を調べる。
テレビやパソコンは水を嫌うので苦手である。

一日のだいたいの降雨計画を頭の中でてきぱきと組み立て、きりりと蛇口をひねって水分を補給する。私雨はこの時間がけっこう好きだ。風呂の残り湯で補給していたこともあったのだけれど、それくらいのぜいたくはしてもいいんじゃない、と言われて、以来水道を使っている。台所にカルキの香気が少し漂って心地よい。そうこうするうちに麻子さんが起き出してくる。

麻子さんは役所づとめで素朴な生活を好む。毎日同じ時刻に同じ道を通って職場に行き、日が暮れる頃帰る。休日には散歩をしたり本を読んだり、時々お酒を飲んだりする。あまり大きな変化のない生活だけれど、日々の発見を楽しみ、小さな驚きを楽しむ、穏やかな暮らしが麻子さんは好きだ。そんなところを私雨は慕っている。

四年目になる職場には特に不満はない。最近異動してきた出納係が万事に潔癖な人でそれが少し鼻につくけれど、麻子さんは彼の文句を軽やかにかわして自分の仕事をこなせる。ストレスをあまり溜めない人である。前夜の残りの目刺と、味噌汁とたくわんと玄米ごはんで朝食を済ます。お茶を淹れる。ゆっくりと飲む。私雨はただ、もくもくと、かたわらでそれを見ている。

新聞を二周して麻子さんは立つ。歯を磨いて薄く化粧をする。私雨は今日の雨具を選ぶ。こうして二人の一日が始まる。


断言してもいいが麻子さんの肌はしっとりすべすべのはずだ。

なんと幻想的な光景だろうか。
二十七歳の公務員の頭のすぐ上十センチほどのところに、小型の海がめくらいの雨雲。私雨を降らせてついてくる。時に激しく、時にわびしく。小型ながらレパートリーは抱負で、麻子さんを飽きさせない。ひょうでもみぞれでもたぶんお手の物だ。職場のみんなにはきっと「技のデパート」と呼ばれている。

今の技術では夢の世界の話ではあるが、あと三万年くらいもすればこんな雲と暮らせる日が来るかもしれない。待ち遠しい。

そしてもうひとつ重大な指摘をしておかなければならない。
光があれば闇がある。「私雨」が存在するならば、その裏に「私晴」もまた存在するはずだ(続)。

2005.07.20.やさしく雨ぞふりしきる(三)
紅雨
春、花に降る雨だそうだ。春の花といったらやはり桜だろうか。
桜の淡い花弁を打ち散らす雨。こうう。


翠雨
青葉に降りそそぐ雨とのこと。初夏に降る雨か。
やわらかな若葉を、つたうしずく。祝福の雨。命の雨。すいう。


をかしさのあまり鼻血が出そうになった。


雨が好きで漢字が好きで風流人かぶれと三拍子、揃えてしまった私はなすすべがない。
こんなものがいくつもいつくもいくつもある。口を半開きにしたままどんどんページをめくる。

降る時刻。暗雨。暁雨。白雨。
降雨時間、季節。淫雨。宿雨。地雨。梅雨。時雨。
タイミング。甘雨。恵雨。瑞雨。
粒の大きさ。弾雨。細雨。煙雨。糸雨。小糠雨。

他に、強さ、降られた時の気分などで、実にさまざまに雨というものは切り取られている。

基本の形を組み合わせて複合形も作られる。すなはち、「冬に降るにわか雨」が「時雨(しぐれ)」であり、春に降れば「春時雨」、にわか雨のうち、降ったり止んだりを繰り返すのが「村雨(叢雨)(むらさめ)」で、冬に降れば「村時雨」「叢時雨」。見よ、この字面のハーモニーを。うつくしさを。なんたることか。

そうかと思えば二字も負けてはいない。「沛雨」。激しい雨のことだそうだ。簡素にして風格漂う字形である。古語の趣。はいう。敗亡などと歌っている場合ではない。ぜひとも使っていきたい。

またそうかと思えば「遣らずの雨」。「訪れてきた人の帰るのを引き止めるかのように降り出した雨」(goo辞書より)だそうだ。やらずの雨。古人め。きはめてをかし。

などなどなど。「血の雨」を登録したgooのひとに敬意を表しつつ、「雨」の部を堪能していった。この時私は最後に待ち受けるものの気配をまるで感じていなかった。ただのほほんと楽しんでいた。をかしづくめの「雨」の部、登録件数一八〇余り、その最後の一項によもや魔物が潜んでいようなどとは考えもしなかった。

最後のページで私は以下のような語を見た。


第一八七項「私雨」。


時が凍った(続)。

2005.07.19.やさしく雨ぞふりしきる(ニ)
世界を、目耳鼻皮(舌)でとらえ、それをどうあらわすか。
コトバとしてどう切り取るか。

コトバ界は、ひとに切り取られた世界の断片が無数に漂う海であり、果てがない。きりもない。だからじぶんのようなコトバ好きはいくら身を浸していても飽きることがない。
まったく見知らぬ世界の記述、空想世界の記述に出会えばただわくわくするし、よく見知ったはずの世界も、切り取ったひとが違えばまるで違う姿をしていてたいそうゆかいだ。

本や書籍から他人のコトバとして取り出したものが自分の感覚と手をつなぐとき、またそこにスペクタクルがありファンタジーがある。


これを踏まえて聞いてもらいたい。


さて、ひとは追い詰められると本性を出すものである。
追い詰められた私がとっさに思いついたのは「漢字」だった。よく知られたことではあるが、私は本中毒者でありコトバ好きでもあり、負けず劣らず漢字フリークでもある。

例えば驟雨。「しゅうう」と読む。
このなんともわずらわしい字形。字自体のフォルムのうつくしさが映えるではないか。

さらに、氷雨。時雨。身を切るような冷たい雨のことだろう。「ひさめ」。語感がすでにをかしである。「しぐれ」とは早い話が「にわか雨」で、驟雨も要するににわか雨のことらしいのだけど、そこを要しないできちんと峻別する、手間。暇。

そして、春雨。春の雨に何かを感じ、思い、わざわざ名をつける心根。そしてまた、ところてんをその雨になぞらえる、風流。まったくの余談ではあるが、私は、もし将来猫と暮らせることになったら最初にこの名をつけると心に決めている。

「漢字もなかなかいいですよ」とて簡単にこれらを挙げた。あまり多くは語らなかったが、そこはやはり通人である。意は通じたようで、短く賛意を表しておられた。

いち風流人としての責務を果たして、しかし私は気になり始めていた。急にはいくつも思いつかなかったけれど、「雨のつく漢字」はまだ無数にあったはずなのだ。古人はいったいどんな風に雨を切り取っていたのだろう。気のおもむくままオンライン辞書で調べてみた。


そこで恐ろしいものを見つけた。ここからが本題である。


goo辞書による「雨」の後方一致検索には実に多様な雨の生態が記録されていた(続)。





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