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荒野の一ドル銀貨―ブログ版
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平凡なひつじです。
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2005.07.22.やさしく雨ぞふりしきる(五)
ここまでの推定に従うならば、「私晴」もやはりごく狭い範囲での晴れだと考えられる。だが恐らく、ただくるりと定義を裏返すだけでは「私晴」は実現できない。

私雨が、私雲というものをぽんと仮定することで思い描けるのに対し、「私晴」は「私的な空間だけ晴れている状態」という、なんとももってまわった想像力を必要とするからである。

全天がくろくもに覆われている最中にあって、ひとの真上、かなたの雲海に、三十センチばかりのぞく、晴れ間。

まずずぶ濡れだ。

雨ははるか上空から垂直に落ちてくるものばかりではあるまい。ただ穴を空けただけではどうにもならない。少し風でも吹こうものならたちどころにぬれねずみではないか。ひとの歩くのについてゆく、という最重大課題も相俟って、その制御の困難さは私雨の比ではないだろう。

想像も及ばないほどの未来、遠い時空でもしかしたら実現されるかもしれない「私晴」。だがなんとか今、現在只今を生きる我々も体感してみたい。古人はいつだって技術の不足を創意で補ってきたではないか。

知恵を絞った。「私晴」に求められる条件とは何だ。

まず、「オフィシャルには」雨であること。公雨の状態で「パーソナルに」晴れていればよい。部分的に雲を晴らすのが難しければ、最大限に晴れに近づくにはどうしたらよいだろうか。「晴れ」とはいったい何だ。つきつめてゆけばそれは「ぬれない」ことではないだろうか。

「パーソナル」に「ぬれない」。この難題を実現させるにはどうすればよいか。最低条件でよい。最も簡単に実現するには。

公雨をさえぎるものが頭上に、欲しい。
それは持ち運べることが望ましい。ひとについてゆく、という移動面での課題をクリアできるからだ。とすれば軽い素材の。

そうたとえば、水をはじく、布か紙のような軽いもの。
それを頭上にかざす。
携帯しやすいように、折りたためるとまた便利だ。軽い金属か何かで骨組みをつくり、布地に通せばよいのではないか。面積効率を考えて、展開した形は円形に、紡錘形のふくらみを与えて、持ち手をつけ。軽く装飾を施せば。


できた!



watakushihare.jpg


ちょうど思い描いた通りのものが自宅にあったので紹介したい。これこそが現代型の「私晴」だ。到底実現不可能と思われた無理難題が手持ちの技術で解決できた。感無量である。






書いているうちに梅雨が終わってしまった。時節は盛夏へと移り変わり、夕立と雷雨が楽しみな季節である。たまには傘をさして歩いてみようか。それはそれでまたいとをかしかと思う。
【付記】
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2005.07.21.やさしく雨ぞふりしきる(四)
それは大胆不敵な宣言であった。


わたくしあめ。


goo辞書によれば「せまい範囲だけに降る雨」とのことだが、どのくらいの規模なのだろうか。

一般にひとは私的な縄張り空間を持っていて、ある距離よりも他人に近寄られると心理に不快を生じる。それを「私」の範囲だと仮定すれば、雨雲は半径三〇センチより大きいということはあるまい。

それが行く先々にとことことついてくる。
こんなにも普段着の「雨」がいったい今まであったろうか。カジュアルだ。

そしてまたこのコトバから「ほとんどすべての雨は実は『公雨』であった」ことに気がついた。

ほとんど、いやまったく誰にも説明を要さないほどオフィシャルな存在であった雨、誰の自由にもならないその絶対的な尊厳が、たったひとつ漢字を加えられたことによって見る間に所有物に堕してしまっている。

アナーキーである。破壊的である。
古人とはこんなにもパンクロックだったのか。


眼を閉じると、私雨の一日が浮かんでくる…


私雨の朝は早い。
朝刊の届く音とともに目覚め、その日の天気を調べる。
テレビやパソコンは水を嫌うので苦手である。

一日のだいたいの降雨計画を頭の中でてきぱきと組み立て、きりりと蛇口をひねって水分を補給する。私雨はこの時間がけっこう好きだ。風呂の残り湯で補給していたこともあったのだけれど、それくらいのぜいたくはしてもいいんじゃない、と言われて、以来水道を使っている。台所にカルキの香気が少し漂って心地よい。そうこうするうちに麻子さんが起き出してくる。

麻子さんは役所づとめで素朴な生活を好む。毎日同じ時刻に同じ道を通って職場に行き、日が暮れる頃帰る。休日には散歩をしたり本を読んだり、時々お酒を飲んだりする。あまり大きな変化のない生活だけれど、日々の発見を楽しみ、小さな驚きを楽しむ、穏やかな暮らしが麻子さんは好きだ。そんなところを私雨は慕っている。

四年目になる職場には特に不満はない。最近異動してきた出納係が万事に潔癖な人でそれが少し鼻につくけれど、麻子さんは彼の文句を軽やかにかわして自分の仕事をこなせる。ストレスをあまり溜めない人である。前夜の残りの目刺と、味噌汁とたくわんと玄米ごはんで朝食を済ます。お茶を淹れる。ゆっくりと飲む。私雨はただ、もくもくと、かたわらでそれを見ている。

新聞を二周して麻子さんは立つ。歯を磨いて薄く化粧をする。私雨は今日の雨具を選ぶ。こうして二人の一日が始まる。


断言してもいいが麻子さんの肌はしっとりすべすべのはずだ。

なんと幻想的な光景だろうか。
二十七歳の公務員の頭のすぐ上十センチほどのところに、小型の海がめくらいの雨雲。私雨を降らせてついてくる。時に激しく、時にわびしく。小型ながらレパートリーは抱負で、麻子さんを飽きさせない。ひょうでもみぞれでもたぶんお手の物だ。職場のみんなにはきっと「技のデパート」と呼ばれている。

今の技術では夢の世界の話ではあるが、あと三万年くらいもすればこんな雲と暮らせる日が来るかもしれない。待ち遠しい。

そしてもうひとつ重大な指摘をしておかなければならない。
光があれば闇がある。「私雨」が存在するならば、その裏に「私晴」もまた存在するはずだ(続)。

2005.07.20.やさしく雨ぞふりしきる(三)
紅雨
春、花に降る雨だそうだ。春の花といったらやはり桜だろうか。
桜の淡い花弁を打ち散らす雨。こうう。


翠雨
青葉に降りそそぐ雨とのこと。初夏に降る雨か。
やわらかな若葉を、つたうしずく。祝福の雨。命の雨。すいう。


をかしさのあまり鼻血が出そうになった。


雨が好きで漢字が好きで風流人かぶれと三拍子、揃えてしまった私はなすすべがない。
こんなものがいくつもいつくもいくつもある。口を半開きにしたままどんどんページをめくる。

降る時刻。暗雨。暁雨。白雨。
降雨時間、季節。淫雨。宿雨。地雨。梅雨。時雨。
タイミング。甘雨。恵雨。瑞雨。
粒の大きさ。弾雨。細雨。煙雨。糸雨。小糠雨。

他に、強さ、降られた時の気分などで、実にさまざまに雨というものは切り取られている。

基本の形を組み合わせて複合形も作られる。すなはち、「冬に降るにわか雨」が「時雨(しぐれ)」であり、春に降れば「春時雨」、にわか雨のうち、降ったり止んだりを繰り返すのが「村雨(叢雨)(むらさめ)」で、冬に降れば「村時雨」「叢時雨」。見よ、この字面のハーモニーを。うつくしさを。なんたることか。

そうかと思えば二字も負けてはいない。「沛雨」。激しい雨のことだそうだ。簡素にして風格漂う字形である。古語の趣。はいう。敗亡などと歌っている場合ではない。ぜひとも使っていきたい。

またそうかと思えば「遣らずの雨」。「訪れてきた人の帰るのを引き止めるかのように降り出した雨」(goo辞書より)だそうだ。やらずの雨。古人め。きはめてをかし。

などなどなど。「血の雨」を登録したgooのひとに敬意を表しつつ、「雨」の部を堪能していった。この時私は最後に待ち受けるものの気配をまるで感じていなかった。ただのほほんと楽しんでいた。をかしづくめの「雨」の部、登録件数一八〇余り、その最後の一項によもや魔物が潜んでいようなどとは考えもしなかった。

最後のページで私は以下のような語を見た。


第一八七項「私雨」。


時が凍った(続)。

2005.07.19.やさしく雨ぞふりしきる(ニ)
世界を、目耳鼻皮(舌)でとらえ、それをどうあらわすか。
コトバとしてどう切り取るか。

コトバ界は、ひとに切り取られた世界の断片が無数に漂う海であり、果てがない。きりもない。だからじぶんのようなコトバ好きはいくら身を浸していても飽きることがない。
まったく見知らぬ世界の記述、空想世界の記述に出会えばただわくわくするし、よく見知ったはずの世界も、切り取ったひとが違えばまるで違う姿をしていてたいそうゆかいだ。

本や書籍から他人のコトバとして取り出したものが自分の感覚と手をつなぐとき、またそこにスペクタクルがありファンタジーがある。


これを踏まえて聞いてもらいたい。


さて、ひとは追い詰められると本性を出すものである。
追い詰められた私がとっさに思いついたのは「漢字」だった。よく知られたことではあるが、私は本中毒者でありコトバ好きでもあり、負けず劣らず漢字フリークでもある。

例えば驟雨。「しゅうう」と読む。
このなんともわずらわしい字形。字自体のフォルムのうつくしさが映えるではないか。

さらに、氷雨。時雨。身を切るような冷たい雨のことだろう。「ひさめ」。語感がすでにをかしである。「しぐれ」とは早い話が「にわか雨」で、驟雨も要するににわか雨のことらしいのだけど、そこを要しないできちんと峻別する、手間。暇。

そして、春雨。春の雨に何かを感じ、思い、わざわざ名をつける心根。そしてまた、ところてんをその雨になぞらえる、風流。まったくの余談ではあるが、私は、もし将来猫と暮らせることになったら最初にこの名をつけると心に決めている。

「漢字もなかなかいいですよ」とて簡単にこれらを挙げた。あまり多くは語らなかったが、そこはやはり通人である。意は通じたようで、短く賛意を表しておられた。

いち風流人としての責務を果たして、しかし私は気になり始めていた。急にはいくつも思いつかなかったけれど、「雨のつく漢字」はまだ無数にあったはずなのだ。古人はいったいどんな風に雨を切り取っていたのだろう。気のおもむくままオンライン辞書で調べてみた。


そこで恐ろしいものを見つけた。ここからが本題である。


goo辞書による「雨」の後方一致検索には実に多様な雨の生態が記録されていた(続)。

2005.07.18.やさしく雨ぞふりしきる(一)
どうやらもう梅雨も終わる。今年も思ったほどの降りではなかった。
二・三週間というもの、傘を持たずに出歩いて、頭からずびたしになったのは二度きりだった。

世のひとは多くこの季節を厭うて、六月に入るなり「梅雨である」「鬱である」と不平をこぼし始める。うっとうしいことこの上ない。日本に生まれて梅雨がおきらいではさぞ暮らしにくいことでしょう、どこぞアラスカにでも越されたらいかがですか、と言いたいところなのだけど、じぶんも夏が得意でないのだからあまり強く言えない。それが唯一憂鬱ではある。冬の日にも書いたように、雨は嫌いではないのでそれほど苦にならない。

ちょっ、とした知り合いに、ちょっ、とした通人がいる。
この人がやはり雨を解する。全面的に好きなわけではないが、雨の風景は好むのだとかいう。

先日、同好の士を見つけた喜びに、いいですよね、雨。と語りかけたところ、通人は「雨の擬音もまたよし」などと述べられた。

恐るべき風流をさらりと発揮されるのである。

雨音と言えば「しとしと」などが代表であろうか。通人もこれを含め三つほど挙げておられた。さんざんに頭をひねった。しかし通人をうならせられるようなをかしな擬音は思いつかず、そればかりか「ぴちょんくん」の微笑みばかりが眼前にちらつき集中できない。雨音の転写がかくも難しいとは思わなかった。

風流人かぶれとして負けるわけには行かない。対抗上の問題として、新たなをかしを提示する必要に迫られた(続)。

2005.07.14.衰滅
その後も、笹にはあとからあとから短冊が吊られた。

黄色い短冊は裏の<未登録自転車>の文字がまぶしい。
tanz4.jpg

神社の枝かなにかと間違えて結わえてしまっているものあった。

そして翌月曜日、ついに笹は消えた。

燃えたのだろうか。燃えたのだろう。
「あいついまごろケムリになって きままに空を飛んでるのだろう」と好きな歌を口ずさみつつ、今年の七夕狂騒について考えてみた。おこさまらのイノセンス。定期券申込書でなまぐさい短冊を吊るした女子高生の暴虐。前衛芸術。事態はカオス化の一途をたどっていった。

振り返ってみて、わかったことがひとつある。
どんどんダメになってゆく。
笹飾りは、どうやら飾られた瞬間をそのをかしのピークとして、どんどんダメになってゆくのだ。

長く飾れば飾るほど、色紙ののりははがれ、飾りはほつれ、短冊は散る。だのに数えきれないくらいのひとびとが往来する駅などに、でん、と飾っておれば、無事にをかしなまま済むわけがない。いじられ、曲げられ、色恋短冊や前衛芸術などを吊られてしまう。笹がわずかに宿していた命の火も消えてゆく。すべてが終わってゆく。

笹飾りはまるで花ではないか。

つぼみが色づき、膨らみ、可憐な花をつける。
をかしである。
そしてそれが萎びてゆくさまはいとをかしである。

古風な言い方をすれば盛者必衰というのだろうか、端的にいえば、ダメへの道だ。宮沢章夫がこんなことを書いていた。「うまいコーヒーを飲ませる気の利いた喫茶店のメニューに、ある日、焼きうどんが登場する」。ダメへの道である。素敵なものごとがダメになってゆくさま、それは限りなくうつくしい。今はっきりといおう。

あはれである。

ダメへの坂を駆け下る笹飾り。
ちょうど、雨に打たれて桜が花を散らすさま、紫陽花が衰え色褪せてゆくさま、をかしなものがどんどんどんどんダメになってゆく、そのありさまに似て、笹飾りもまたいとあはれである。

かなり革新的な七夕観に目覚めてしまった。
その全ての始まりは、しゃいにーるみなす。人生はわからない。

2005.07.13.月色
にんげんを二十四年ばかりもやってきたが、まさか掛け軸を貰えることがあるとは思ってもいなかった。




何でも『秋がやってきたというのに詩も酒も用意がなかったなら、その月の色をいったいどうすればよいのか』、という意味の詩だそうだ。やや正確でないかも知れないが。

書をたしなむ友人が春にくれた品であり、はっきりいってかなり気に入った。じぶんも筆が好きなため、この達筆ぶりはしかし少し悔しくもあった。

それにしても、いつごろの詩なのか詳しく知らないけれど、何百年かもう少しくらいか前の中国大陸に、じぶんと同じような風流人かぶれがいたのだな、と思うとなんだか感慨ひとしおである。断言してもいいけれどろくな人間ではないしろくな生き方はしなかったに違いない。

同士よ。いったい君の月は冷たかったですか。

そうですか。そうですか。
でもそれがまたよかったのでしょう。
でしょうでしょう。
まあお呑みなさい。

2005.07.08.黒幕
七夕の願いをかなえているのはいったい誰なのだ。
そういえば。

と、そういえば昨年、旧友と考えた。

七夕の登場人物のうちに思い当たるところがない。
「織姫と彦星はまず違うだろう、忙しいし」
と話し合ったのだけど、では誰だろう。

なにものか影で暗躍してはいまいか。
まさか罪のなさそうな顔をして、かささぎが。まさか。しかし。

あの短冊はもう煙になってしまっただろうか。

2005.07.07.七夕
この時期、街にあらわれる短冊は見逃せない。
そう悟ったのは去年、友人の報告を受けてからだった。

「がんばれ蘇我ひとみ」

と書かれた短冊を見たというのである。

短冊というものは、まずたいていが幼稚園や保育所などに勤務するおこさま達の手になるものと考えられる。七夕を数日後に控えて、駅の改札前に笹が登場していて最近よく眺めている。近隣の幼稚園生の作、らしかった。

「ケーキやさんに」「いしゃに」「おしろのおひめさまに」なりたい。

じぶんが短冊を書いていた頃のとそう変わらない。なんだか懐かしい。友達の名を記して「まともになりますように」などというのもあった。時に残酷だ、おこさまというやつは。時々、妙に字の達者なのも混じっていて、ああ先生に書き直されたのだな、と得心したりするのもまた楽しい。

見ている間中、そうやって、短冊に心を向ける余裕のある風流な若者、といった演技をしていた。念を入れて少し目を細めたりした。

おもてむき、穏やかで心優しいひとに見えているはずだ。じじつ半分方は本当に楽しんではいる。けれどもう半分は、剣をいっぽんだけ刺し残された「黒ヒゲ危機一髪」の黒ヒゲくらいにひそかに胸をたぎらせて、獲物を狙う四足獣のような所作で足を運んでいる。見ている。

私は確信していた。
なんの計算もない、純真・残酷なおこさまの手による、無垢の傑作がどこかにあるはずだ。

やや下に垂れた枝をひょいっと検めたとき、それはあった。

「大きくなったら しゃいにーるみなすに なれますように」

じつに流暢な字でそう書かれていた。

なんだろう。「しゃいにーるみなす」。周囲の短冊とは何かが明らかに違う。

職業か。役職か。肩書きだろうか。「キャリアウーマン」みたいなものだろうか。
いや、果たして現実のものなのか空想世界のものなのか。それすら不明だ。

達筆なせいか、目標の確固としたありさまゆえか、なにか気圧されてしまう。わからないことがこちらの罪のような気すらする。この短冊に限っては先生の代筆ではないのかも知れない。なにしろしゃいにーだ。

きらめく傑作を得て、私は満足して帰った。





これで今年の短冊の見所は押さえた。そう思っていた。

数日して、サンドイッチを歩き食いしつつ駅に来た。いつも終電ぎりぎりで帰るのだけどこの日は少し早かった。時間にずいぶん余裕があり電車もしばらく来ない。てもちぶさたになり、それで足が自然と短冊の方へ動いた。

丹念に見つくしたのだから見落としはあるまいと思っていたら、いくつか追加があった。手の遅いおこさまの作だろうか。

その中のひとつ。


夜に車にのりながら
窓をあけて アンダー・ザ・ブリッジをかけながら
風のていこうをうけながら
タバコを吸うこと



何者だろう。かなりのワルである。
まぎれもなく夜の住人だ。字からして間違いなく少年なのに、すでに快適な時間というものを知っている。幸せをつかんでいる。

少しくしゃくしゃになった青い短冊に心臓を打ち抜かれて、立ち尽くすしかすべがなかった。

本日七夕。
【付記】
2005.07.03.目撃
ひさしぶりに新宿に行き駅を出るとすぐ人だかりが見えた。
なにごとかと近づくと、仔猫がもこもことぽすとに乗っていた。




街中の駅前の吹きッさらしのぽすとにいきなり猫。惑乱した。

その日の帰りがまたちょっとかなりだった。

新御茶ノ水の長いエスカレーターを降りていると、ごんごんと足音の機械の駆動音だけ響いてるべきところに、どこか遠い、懐かしいような音色が聴こえた。楽器の音。携帯なんかの音ではない。

ふと右を見ると、右端のレーンの、下から昇ってくる男が、頭のてっぺんに爽健美茶のペットボトルを載せたまま安定させて、みじろぎひとつせず片手でハーモニカを奏でていた。サラリーマンにしか見えないのだが。

数段下のステップから、若者がこれを激写していた。
劇的な空間にひらめきわたる、フラッシュ。すれ違う上下。

感極まって、友達に打電報告した。
すると「美茶の容器はカンかペットボトルか」と妙なことを訊く。
ペット、と答えると、「我も知りぬる」とぞ折り返し返事が来た。

どうやらこのサラリーマン風の男、中央線と千代田線を、それも冬から夏にかけて、このスタイルを貫き通しているらしいことがわかった。

男の写真は、残念ながらない。
【付記】




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