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荒野の一ドル銀貨―ブログ版
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平凡なひつじです。
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2006.04.25.定演(四)
(ここまでのあらすじ…定期演奏会を見に行ってみた。)

■M
今回はじゃず研の舞台に初めて欠席した。

これまではじゃず研のイベントが生活の中心で予定も都合もすべてそれに合わせて参加してきたものだから、ただ見ているだけの聴衆という位置は慣れないことおびただしい。気楽ではあるけれど座りが悪い。

卒研に腰を入れるため出演の誘いを丁重に断ったのはじぶんだった。結果、奇跡的に学業を終えられた。だから文句のあろうはずはない。それにいつもは自分の出番に集中するあまり、他の部員だの友人だのの演奏をほとんど聴けない。たまには腰を据えて鑑賞してみるというのもまあいいかと思っていた。

思っていたのだけどつまらなかった。


会場でぼんやりと眺めていると、部員の悲喜こもごもがあれこれ見える。

出番前、がちがちに緊張するもの。絶望するもの。諦観するもの。そうでもないもの。必死に譜面を見ているもの。あんぱんを探しているもの。

出番中、集中するもの。不意のアクシデントにまごまごするもの。音で会話するもの。しないもの。プレッシャーと闘うもの。心底楽しそうに他の奏者の演奏を見ているもの。

出番後、泣いているもの。笑っているもの。取り返しのつかない十字架を背負ったような面持ちで黙っているもの。放心しているもの。ただ疲れて眠そうなもの。寝ているもの。

どれひとつとっても過去がよみがえって仕方ない。
うらやましくて仕方なかった。仕方なくてつまらなかった。
それで割と静かにしていた。

私は練習をしないのに目標だけは高い困った人間だったから、湧き上がってくるのはうちひしがれていた思い出ばかりだ。だから浮かれている人間のことはよくわからないけれど、沈んでいる人間はなんとなく考えていそうなことがわかるように思う。

この後、じぶんに絶対的に足りていないものに直面して苦難の道を辿ることになるはずだ。

モダンジャズの根幹である「即興で演奏をせよ」という精神にはどうにか慣れた。それはいい。
その後、ではそれは音楽か。と問われて答えることができるか。



以下ちょっと長く書く。

定演というのは数あるじゃず研の催しの中でたぶん最もざんこくなイベントで、ごまかしというものがほとんど利かない。

わがじゃず研の二大イベントに大学祭と定演とがあり、部員の多くは、いっぱんのひとに演奏を披露する場が実質この二回しかない。けれど両者の性格には大きな違いがある。

大祭が「祭り」であり、どちらかというと寛容で、演目は必ずしも正統ジャズに準じる必要がない(気がする)のに対して、定演は少し格調が高い。間違いなく実力が試される場だと思う。

さらに、大学祭は通りすがりのひとびとがふらりと立ち寄ってくるけれど、定演の聴衆は(特に会場を変えた今年は)間違いなく、ジャズを聴きにやって来る。

だから派手な演出だとかパフォーマンスだとか勢いだとかでごまかせない。

まかり間違って他人をごまかすことができても、きっとじぶんはあざむけない。演奏したものがただの自己満足に過ぎなかったのか、何かひとに訴えかけるものだったのか、ひりひりと突きつけられる場、それが定演、だった、少なくともじぶんにとって。


じぶんに足りないところが(もし)すぐに見つかっても、それがすぐに補えたりすれば世話はない。克服するための練習を考え、実践して、長いこと格闘しなければならない。成果が目に見え始めるのはずっと後になってからだから、見当はずれな鍛錬をしているのではないかとの不安にいつもさいなまれる。

また、欠点がひとつだけなんていうこともたぶん、ない。リズムがいもいタイム感が悪い、音が伸びないピッチが悪い、フレーズがつながらないメロディが作れない、伴奏が上手く決まらない、周りの音が聴けない。いくつでも改善点はあって、どれもきっと根っこではつながっていることではあるのだけれど、考えることはいくらでもある。まさしくじゃず「研究会」だと思う。

それでも、即興で音楽を紡ぐ快楽に少しでも目覚めてしまったら、もう取り憑かれてしまうのだろうと思う。

昔の漫画に「ボクシングには麻薬のような魅力がある」という名言があった。ライトに照らされるステージと、熱気に溢れる観衆と、拍手と、一度体験すると忘れられなくなるのだとかいう。過酷な練習に耐えるあたり、なんだか少し似ているような気もする。





ところで、時々、我々(じゃず研)にはサドが多いのかマゾが多いのか、という議題で友達と話すことがある。たいてい、各個の詳しい検討に入るはるか以前に、「明らかにマゾが優勢である」と話が落ち着く。

彗星のようなサドが何年かに一度現れるらしいのに対して、火を見るよりも明らかなマゾというのはそうはなかなかいない。だから「サドではない」という意味でマゾ有利、と私見を述べると、「そんなことはない」との答えが返ってくる。マゾばかりではないかという。いつだったか、そのどう考えてもサドの人と検討したときも、最近後輩と議論したときもそうだった。私自身、それと自覚したことはないのだけど再三再四「マゾである」と指摘されてきた。

この結果から見るに、恐らくやはり「マゾ優勢」である、とひとまず仮定してもよさそうだ。

しかしどうしてそんな被虐的なサークルなのだろう。と考えて、思い当たった。

じゃず研に残る人間というのは、イバラの道を好き好んで(ひょっとしたらはだしで)進むやつらだ。答えの出ないことをいつまでもいつまでも考えていたり、思うように成長しないじぶんの実力に絶望したり、それでもなお練習をしたり、その他その他。マゾでなくしてどうしてそんな道を進めようか。

そういうことか。

「じゃず研マゾ仮説」をここに発表し、今定演レポートの幕としたい。
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